2008年5月27日火曜日

昔、50万人もの日本人が海外へ奴隷として売られていたこと

この事実、知りませんでした。 戦国時代、南蛮貿易の輸出品として日本人が海外へ奴隷として売られていたんだそうです。


徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。

(鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から)


日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。


ここにある50万人という数は信用できないようですが、確かにキリシタン大名が火薬の原料、硝石を輸入する対価として日本人女性を輸出していたというのは事実なようです。


そうした後、豊臣秀吉はいっこうにやめない奴隷貿易などを理由としてバテレン追放令を出したそうです。


「バテレン追放令」のほか、「バテレン改宗令」などとも呼ばれ、学会でも必ずしも統一的な呼び名が決まっているわけではないが、本稿では便宜上「追放令」で統一する。

秀吉は元来織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していた。1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパル・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。しかし、翌年九州を平定して博多に滞在していた6月18日の覚書でキリシタン規制を表明した。伊勢神宮の神宮文庫にある『御朱印師職古格』などに収められているこの覚書によればキリシタンも「八宗九宗」(第九条)と規定して体制下の宗教と見なしていたが、翌19日の禁令ではこれを覆すかのように「邪法を授け」るものとしてキリスト教を厳しく規定しなおしている。

具体的には神国である日本でキリスト教を布教することはふさわしくないということ、領民などを集団で信徒にすることや神社仏閣などの打ちこわしの禁止、宣教師の20日以内の国外退去などと同時に、この法令が南蛮貿易を妨げるものでなく、布教に関係しない外国人商人の渡来に関してはなんら規制を設けないことが示されている。

その一方、日本を離れる宣教師には渡航費用を拠出する旨があり、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰するとも言い渡している。また、強制的にキリスト教への改宗をさせる事は禁止しているが、個人が自分の意思でキリスト教を信仰する事は規制しておらず、一定の領地を持つ大名がキリスト教になるのも認可制(秀吉の許可が必要)とされたが、これも禁止されてはいない。この時点ではキリスト教そのものを禁止してもいないし、弾圧や迫害してもいない事には注意するべきである。


でも、日本人が自国民、それも女性達を主に奴隷として輸出していたという事実はどうなんでしょうか?
いろいろと考えさせられたことでした。

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