2008年6月3日火曜日

マルチナ ナブラチロワ




マルチナ ナブラチロワ。 いわずと知れた女子テニスの最強の選手でした。

彼女をはじめて見たのは1980年くらい。 その頃強かったエバート、オースチン、イエーガーとの対戦を見に青山学院記念館まで行ったものです。

マルチナ・ナブラチロワ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



マルチナ・ナブラチロワ

基本情報

ラテン文字名 Martina Navrátilová
国籍 アメリカ合衆国
チェコスロバキア
出身地 チェコスロバキア・プラハ
居住地 アメリカ・フロリダ州サラソタ
生年月日 1956年10月18日(51歳)
身長 173cm
体重 65kg
利き手 左
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴

デビュー年 1973年
引退年 単1994年/複2006年
ツアー通算 344勝
シングルス 167勝
ダブルス 177勝
生涯通算成績 2189勝362敗
シングルス 1442勝219敗
ダブルス 747勝143敗
4大大会最高成績

全豪 優勝(1981・83・85)
全仏 優勝(1982・84)
全英 優勝(1978・79・82-87・90)
全米 優勝(1983・84・86・87)
優勝回数 18(豪3・仏2・英9・米4)
全英9勝は女子歴代1位
キャリア自己最高ランキング

シングルス 1位
ダブルス 1位

マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、旧チェコスロバキア・プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。

1975年に祖国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得したが、2008年1月9日にチェコ国籍を再取得、現在は二重国籍である。

人物
生まれた時の名前は「マルチナ・シューベルトワ」といったが、3歳の時に実の両親が離婚、その後母親がミロスラフ・ナブラチルと再婚したことから、継父の姓の女性形を名乗って「ナブラチロワ」になった。1975年に共産主義国のチェコスロバキアを離れてアメリカに亡命する。1978年のウィンブルドン選手権で4大大会初優勝を果たしたが、当時はまだチェコスロバキア国籍であった。1981年7月に米国市民権取得を果たす。この年に全豪オープンで初優勝を果たし、ここからの優勝はアメリカ国籍になる。(全豪オープンは1985年まで12月の年末に開催されていた。現在のような1月開催になったのは1987年の大会からであり、1985年12月 → 1987年1月と開催時期の変更がなされたため「1986年全豪オープン」は“開催せず”の空欄となっている。)

初期のナブラチロワには精神面の弱さや亡命問題のストレスなどがあり、選手としての開花は25歳を過ぎてからであったが、1981年の全豪オープン優勝を契機に無敵の強さを発揮し始める。1982年に全仏オープンとウィンブルドン選手権を制覇して4大大会3連勝。この年からウィンブルドン選手権に前人未到の「6連覇」が始まる。1983年のウィンブルドン選手権から1984年の全米オープンまで、2年間にまたがる4大大会「6連勝」を達成。しかし年末開催の全豪オープン準決勝でヘレナ・スコバに敗れ、“年間”グランドスラムを逃してしまう。(4年後の1988年にシュテフィ・グラフが年間グランドスラムを達成したため、ナブラチロワの2年間にまたがる記録は「グランドスラム」認定から取り消された。)1987年にウィンブルドン選手権で6連覇を達成。この時から彼女は1938年に同選手権「8勝」を挙げた往年の名選手、ヘレン・ウィルス・ムーディの記録を更新する目標を掲げた。しかし1988年の同選手権決勝で19歳の新女王シュテフィ・グラフに敗れ、大会7連覇を逃した。グラフには1989年の決勝でも敗れている。1990年の決勝戦で黒人選手のジーナ・ガリソンに完勝し、宿願のウィンブルドン選手権「9勝」を果たす。52年間大会歴代1位であったムーディの記録は、こうして破られた。

1994年を「シングルス最後の年」と位置づけたナブラチロワは、あまり得意ではないクレーコートの全仏オープンに6年ぶりの参加を決めたが、1回戦敗退に終わる。最後のウィンブルドン選手権では4年ぶりの決勝に進出したが、スペインのコンチタ・マルチネスに敗れて大会10勝目を逃した。同年11月の女子ツアー年間最終戦「バージニア・スリムズ選手権」において、女子テニス選手として初めての「引退式典」がナブラチロワの偉業を讃えて開催された。38歳に至るまで第一線で活躍したナブラチロワは、世界ランキング4位で現役を退いた。

1997年に史上最年少で世界ランキング1位になったマルチナ・ヒンギスが、「ナブラチロワにあやかって」命名されたことはよく知られている。

[編集] 社会運動での業績
ナブラチロワは数々の政治運動や社会運動に積極的に関わっている。著書『Being Myself』の中で、レズビアンであることをカミングアウトして以来、差別と自己否定に苦しむLGBTの若者たちを勇気づける講演活動を続けている。コロラド州がLGBTの権利を否定する憲法修正条項の導入を計画した時、ナブラチロワはこれを阻止するための集団訴訟の原告団に名前を連ね、メディアを通じて反対運動を展開した。このような業績が認められ、2000年に人権団体「ヒューマン・ライツ・キャンペーン」から表彰を受けている。[1]

ナブラチロワは動物愛護運動でも知られている。世界最大級の動物愛護団体「動物の倫理的扱いを求める人々の会」の活動に従事し、完全な菜食主義者であることを公にしていた。しかし、2006年にトークショーで、タンパク質補給のために必要最小限の魚を食するようになったことを認め、菜食主義を貫きながらアスリートであり続けることの難しさを語った。

でも、最盛期の彼女の体、すごいですよね。 腕なんか血管が出ちゃって男らしいというか。



ウインブルドンを見ていたとき、彼女を応援していた彼女はリップスティックレズビアンの方々ばかりでした。



一番のライバルはクリスエバート。 私にとってエバートのテニスはいまいち面白みがなかったので、サーブアンドボレーのナブラチロワのプレーはとても興味がありました。 (ただ私のバックハンドはしばらくダブルでしたし、ヨネックスよりもウイルソンのラケットを使ってましたが)



キング夫人! かわいいです!

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