10年前くらいですか、いわゆる熟女ブームがありました。
まず鈴木その子さん。
鈴木 その子(すずき そのこ、本名:鈴木 荘能子(すずき そのこ)、1932年1月20日 - 2000年12月5日)は、昭和50年代から平成年代にかけての美容研究家・料理研究家。株式会社トキノ(現・株式会社ソノコ)創業者。東京都出身。学習院女子短期大学食品化学科卒業。
父は、戦前・戦後を代表する相場師の一人であった山中力松。縁あり結婚後は永く主婦業に専念し、夫との間に一男一女を儲けるが、実母を生活習慣病で、息子を拒食症(ベランダに出たとき体力が著しく低下していたことによりふらつき転落し落命)で亡くした過去から「食事によって健康的に病気予防・肥満防止が図れないか」の旨料理・栄養研究に没頭、書き上げた著書『やせたい人は食べなさい』のミリオンセラーにより、一躍有名になった。
その米飯を中心とした日本人にとって最適な食の提案は、今でこそ当たり前のように言われているが、1980年代当時の主食を軽んじた副食偏重の傾向に一石を投じ、「ダイエットの教祖」とまで呼ばれるようになった。そして、独自の「鈴木式食養理論」により多くの人々に支持され、創業した株式会社トキノの会員組織・トキノ会は30万人もの会員数を擁するという。
1990年代後半には、その異様に白塗りした顔と、テレビ番組出演の際に顔だけを集中的にライトアップするというその演出方法により、「美白の女王」としても一世を風靡した。また越智通雄の選挙応援を幾度となく行ったことも知られるが、これは越智の永年連れ添った妻が鈴木の学習院時代の同期・親友であったことに由来した。
1999年3月に腸閉塞になってからは、体調を崩し気味になった。風邪をこじらせて入院してから1週間後の2000年12月5日午前4時45分、併発した肺炎のため死去。享年69(満68歳没)。戒名は「白蓮院妙容日苑大姉」。鈴木はホテルニュージャパンのオーナーだった横井英樹の邸宅跡地を購入し、自身の邸宅を建設しようとしていたが、鈴木の死去により建設工事は途中で中止となり、土地は売却された。
次にサッチー。 昔、怪傑熟女 心配ご無用!などに出ていました。
野村 沙知代(のむら さちよ、旧名:伊東 芳枝(いとう よしえ)、1932年3月26日 - )は、日本のタレント。愛称は「サッチー」。星座は牡羊座。血液型はB型。
以下、ウイキペディアからの抜粋。
[編集] 来歴
若い頃より、東京の田園調布出身でコロンビア大学留学、元皇族等と自称しており、1996年10月、国会議員に立候補したが落選した(後述)。しかし実弟の伊東信義、次男のケニー野村らにより以下の経歴が暴露されている。沙知代は福島県西白河郡西郷村に生まれ、一年後に一家で上京し、東京市荒川区に在住。父の伊東巳之吉は東京市内でバスの運転手をしていたという。1944年3月、東京都荒川区立第二瑞光国民学校(現在の荒川区立第二瑞光小学校)を卒業後、一家で故郷の福島県に疎開し、旧制福島県立白河高等女学校(現在の福島県立白河旭高等学校)に入学しようとするも、結局白河市の電電公社に電話交換手として就職。つまり大学には入学していないばかりか受験資格さえ持っていないことになる。電話交換手の職は長く続かず、終戦後10代のうちに家出、東京に戻り、しばらく実家とは音信不通となる。東京に戻った沙知代は新橋にあった第一ホテル(現在の阪急阪神第一ホテルグループ第一ホテル東京)に出入りした。終戦後東京の主要ホテルのほとんどがGHQに接収され、米軍の将校たちの宿舎となっていた。第一ホテルも同様であり、沙知代は第一ホテルの厨房で皿洗いのアルバイトをしながらホテルに滞在する米国人相手の商売、具体的には当時「パンパン」と呼ばれた娼婦をしていた。しばらくすると実家に手紙を送ってくるようになり、妹や信義を第一ホテルに呼び寄せては米兵からもらったチョコレートやコーラを与えたり、後には妹や信義の学費の援助もするなど、家族関係は悪くなかったという。東京での住まいや生活の子細、娼婦をしていることなどは家族に明かさなかったものの、信義によれば沙知代の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見れば娼婦をしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する沙知代に遭遇することもあったという。また沙知代は現在も英語をある程度理解することが出来るが、この頃米国人と接する過程で覚えたものである。沙知代はこうした生活を進駐軍が撤退した1952年頃まで5年以上続けていたという。
実弟伊東信義によると、幼少の頃より虚言癖があったそうである。「自分は伊藤博文の家系」と、全くの別姓でありながら言いふらしていたという(読みは同じだが、漢字表記が別)。また、万引きの常習犯で、度々警察沙汰を起こしていた、とも後述の自著の中で信義は明かしている。
マスコミの調査によると、沙知代は地元で電話交換手の職についていた頃、地元のミスコンテストに「電話交換手 伊東芳枝(住所は白河市)」として出場。優勝し「ミス白河」に選ばれ、地元新聞に写真入りで紹介されているという。その後間もなく電話交換手を辞め家出したようである。
第一ホテルで知り合った米軍将校と1957年に最初の結婚。前夫との間に団(ダン)、ケニーが生まれた。沙知代は喫茶店兼スナックを開業したが家事も仕事もせず、前夫が店を処分して一家でアメリカに渡るも、間もなく日本に帰国して事業を興し、後に沙知代の脱税の舞台となる株式会社ディーアンドケイを設立。1960年代に日本でブームとなっていたボウリングに目をつけ、前夫の縁故を頼りにアメリカからボウリング用品を輸入する仕事を始めた。しかしその後前夫と別居し沙知代一人で仕事をするようになる。沙知代はこの仕事を通じて実業家小佐野賢治や堤清二の知遇を得たとされ、英語を話せたこともあり、堤の紹介で茶道裏千家出身の評論家塩月弥栄子の秘書となった。塩月の秘書として通訳や経理などを担当していたが、塩月の名前で勝手に買い物をしたり、塩月の著書の印税を横領したとの疑いをかけられ解雇された。このように政界・財界等にに人脈を広げる中で、当時プロ野球界きってのスター選手の一人であった野村克也と知り合い、1973年7月には克也との間に克則が生まれた。その後1976年5月に前夫と離婚が成立、1978年4月克也と結婚した。克也も前妻と離婚しての再婚である。
ケニー野村は子供の頃、初詣に行った際、賽銭箱に入らなかった現金を拾い集めるよう命令された。それも、高額紙幣を狙う様に言われた上、多数の神社仏閣で繰り返させられた。
伊東信義が、自著を出版する以前の週刊誌へのインタビューで語った話によると、沙知代は未婚のまま生まれた克則を父・巳之吉の子、即ち信義の弟として籍に入れようとしたという。その後、野村が認知している。また、そのインタビューの中では、沙知代の前夫が離婚後自殺した事や、それに責任を感じた巳之吉が前夫に戒名を与え供養した事、野村の前夫人がその後病死した事にも触れていた。
ありもしないことで選手に激怒したり勝手にロッカーを出入りしたりするなど当時在籍した南海ホークスでの沙知代の評判は悪く、後の野村更迭の原因にもなった。選手起用に口出しする事も多く、助監督ならぬ“女監督”と揶揄されたほどであった。
少年野球チーム「港東ムース」のオーナーを務め、選手の親も含めた厳しい指導(暴力も含む)で知られた。ムースを退団した選手への仕打ちとして、他のチームや学校に圧力をかけ、その後野球を続けられなくなったり、親には持参金や土産を強要したりするなどの行動をとったことが、一時はワイドショー番組で大々的に報じられた。次男のケニーが独身時代、後に妻となる女性の息子がムースに所属していたが、このケースで野球が続けられなくなったことを、ケニーは自著で明らかにしており、ケニーが絶縁する大きな理由となっている。このチームには中日ドラゴンズの井端弘和、埼玉西武ライオンズのG.G.佐藤、北海道日本ハムファイターズの須永英輝も所属していた。
克也との結婚時の騒ぎ以来その存在はある程度世間に知られていたが、1980年代から「野村克也の妻」としてマスコミにたびたび現れるようになり、タレント活動をはじめる。克也が監督を務めたヤクルトスワローズが1992年以降複数回にわたってセ・リーグ優勝、日本シリーズ制覇をなし遂げたことなどにより、1990年代には沙知代もテレビ、ラジオ、雑誌等に頻繁に登場した。1995年には三男野村克則がヤクルトに入団するなど家庭の話題も多く、全国で講演会を開くなど活動の場を広げ、「猛妻」「猛母」として知られるようになる。
「森田一義アワー 笑っていいとも!」のレギュラー出演者となった1996年からいわゆるサッチー騒動が勃発する1999年にかけてはタレントとして最も活発に活動し、「全盛期」を迎えていた。その横柄な態度や特有の威圧感から世間の好感度は決して高くはなかったものの、乱暴な言動や単なる悪口が「歯に衣着せぬ物言い」「社会のタブーに挑戦する発言」などとマスコミにもてはやされた[1]。ワイドショーなどがその毒舌を取り上げ、ことあるたびにコメントを求めるなど「ご意見番」としても遇されていた。時には政治や社会問題についても発言していたことから、衆院選候補者に擁立される動きが出るまでに至ったのであった。
1996年10月20日施行の第41回衆院選に東京5区から新進党公認候補として立候補するも、第3位で落選(得票43347、惜敗率51.1%。同選挙区の当選者は自由民主党前職の小杉隆、得票84731)した。選挙前の9月21日、当時の新進党党首小沢一郎が自ら野村邸を訪問し、沙知代に「あなたは広く国民の意識を代弁できる方です、私たちが目指す政治改革に是非参加して頂きたい」と出馬を要請した。この選挙において新進党は小選挙区同党公認候補の比例代表へ重複立候補を原則として認めない方針で臨み、選挙区事情などからごく一部の候補者のみ特例措置として重複立候補を許可したが、沙知代は比例代表東京ブロックにも重複立候補した[2]。比例名簿第6位にランクされたものの、こちらも落選となった。なお東京ブロックでは5位の候補者まで当選したため、沙知代は比例代表次点となった。次点であったことがその後大きな影響を及ぼすことになった。
落選後も引き続き芸能活動を続けた。1997年には「快傑熟女!心配ご無用」の「熟女」(回答者)に起用され、1998年には東京都の遊園地「としまえん」のポスターに、水着姿でメリーゴーラウンドに乗って登場。同様のテレビCMも放映された。
これ、ただ抜粋しただけです。 最近のウイキペディアって怖い。
この映像、、、怖いです。 サッチーVSデヴィ夫人。
最後にデヴィ夫人。
デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno、1940年2月6日 - )は、東京府(現 東京都)出身のタレント、コメンテーター。本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)、旧姓(日本名)は根本 七保子(ねもと なおこ)。一時期、インドネシアの故 スカルノ大統領第3夫人(4人の夫人のうちのナンバースリー)であった。
人物
旧 東京市麻布区麻布霞町出身。父や兄は霞町界隈の大工であった。インドネシアの故スカルノ大統領元夫人(4人の夫人のうちの第3夫人にあたる)。結婚後ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと同大統領から命名される。名前の由来はサンスクリット語で「宝石の聖なる女神」という意味である。
スカルノ大統領失脚後、フランスへ亡命。社交界で活躍。その後、数年はインドネシアに戻り石油事業家等を経て、ニューヨークへ移住する。その後は日本に帰国。現在のタレント活動等に至る。「デヴィ夫人」の愛称でバラエティ番組等に出演。その歯に衣着せぬ発言が話題になった。現在もセレブ・ご意見番として芸能界で活躍中。
芸能活動以外には、主催チャリティパーティの慈善活動や国際問題、政治的意見にも精通する。大統領夫人時代に親交があった北朝鮮の拉致問題や餓死問題にも意欲的に活動。日本の拉致被害者援助や120トンの米支援を行っている。株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役。
ホステス
東京都立三田高等学校定時制部を中退後、赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」のホステスとなる。1959年に、インドネシアへの日本政府の開発援助に伴い、東日貿易の秘書として、スカルノ大統領のもとに送り込まれた。総合商社の日商岩井からスカルノへの「夜のプレゼント」というような意味があったといわれている。この一件に当時昭和のフィクサーである児玉誉士夫が関わっていたとされ、児玉は巨額の謝礼を得たという。
スカルノ死去後
スカルノは、クーデターを予期し以前よりインドネシアからスイスへ巨額の資金を確保していたとささやかれるが、インドネシアより正式な財産の受け取りはないという。つまり、1970年のスカルノ死去時にスカルノ家、ならびにインドネシア政府から財産の相続の権利や子供のスカルノ一族としての地位などを喪失し、第三夫人としての資産は与えられなかったという噂もあるが、実際には遺産が与えられたという説もある。その後のインドネシア政府の方針転換により、第三夫人としての遺産分与が行われた。
『東洋の真珠』とも呼ばれるのその美貌で、社交界の華として多くの要人らと交友をもった。1980年には、インドネシアへ戻り石油関連事業を興した。しかし、実際にはスカルノ政治によるインドネシアの世界的な孤立により夫人としての外交的立場を失っていたという。また、日本政府や日本の企業財閥側もクーデターで失脚したスカルノのデヴィ夫人を擁護することは無かったとされる。
1991年にアメリカのニューヨークへと移住。ここからインドネシアの第一線から退く。その後の政変や第一夫人・第二夫人を中心とした政治の動乱には巻き込まれることもなく、日本に帰国し現在に至っている。
1992年1月2日にスキー・リゾート地のアスペンで、セルヒオ・オスメニャ第四代フィリピン大統領の孫娘Minnie Osmenaをワイングラスで殴って怪我をさせて傷害罪で逮捕され、禁固60日の実刑判決が出て、37日間収監される。動機は、数ヶ月前スペインのイビサ島でのパーティに於いて、Minnie Osmenaがフィリピン副大統領になる意志があることを発表し、デヴィ夫人がぷっと吹き出したことから二人の関係が悪化したため。刑務所での生活は学生寮のようで楽しかったとニューヨークタイムズに語っている。「週刊新潮」が1993年7月15日号で報じた、デヴィ夫人主催のチャリティーパーティーで集まった寄付金の一部を勝手に引き出した疑いがあるという記事に対して、名誉を傷つけられたとしてデヴィ夫人が新潮社を告訴していた訴訟で最高裁は、「記事の大筋は真実と認めた2審の判断は正当」と上告を棄却。
2000年に、デヴィ夫人が有名人の批評等を書いた著書「デヴィのチョット一言よろしいかしら?」を出版した際、音楽プロデューサーの酒井政利がワイドショーでこの本を痛烈に批判。いわく「これだけ人を不快にさせる本は良くない」「人の話題にありついて芸能界にパラサイト(寄生)している」「人の話題に寄りかからなくても自分の人生経験があるはず」「デヴィさんに一体、何を極めた人なのか逆に聞きたいですね。ここまで言えるというのは」と発言。これを知ったデヴィ夫人は激怒。「DEWIと言えばワタクシのことは世界中の人が知っている。あの方こそ何を究めたというのか。酒井利政なんて誰も知らない(本当は政利)。あの方こそ芸能界のパラサイト、寄生虫」「ああいうウジウジして紳士ぶって、ワタクシ大嫌いですね。何してた方なんですか?山口百恵の付き人ですか?ワタクシ、知らないですよ」等と発言して物議を醸し話題を呼んだ。
現在は活動基点を日本に置き、「デヴィ夫人」の愛称で日本のワイドショーやバラエティ番組の出演者として親しまれている。テレビ、新聞、雑誌等での名前の表記は、この愛称の方がよく用いられる。1990年代後半以降、優雅で煌びやかな衣装と華麗な経歴、そして何処か浮世離れした不思議な存在感で、他に類の無い特異なキャラクターと認識され、テレビなどで大いに活動する。タレント活動、講演活動、コメンテーターなどを多様に展開。アメリカ在住中はアメリカ国籍を申請中に例のシャンペングラスでの喧嘩事件で刑事被告となったのでアメリカ市民権を断念し、日本に移住するが未だ日本国籍は無くインドネシア国籍のままである。
鈴木その子さんは別にして、サッチーとデヴィ夫人は貧乏のなかからのし上がった女性ということですごく強く関心します。 人間のしあがるにはこういうようなパワーのある人でなければいけないんですね。
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