グラフ、セレス時代の前のスターです。
この頃は、アンドレア イエーガー、トレーシー オースチン、そしてハナ マンドリコワなど若手VSマルチナ ナブラチロワとクリスエバートという図式で、まあその中ではナブラチロワが抜きん出ていましたが私はマンドリコワの切れのいいテニスが大好きでした。
マンドリコワがわからない人は以下、ウイキペディアからの抜粋を見てください。
ハナ・マンドリコワ(Hana Mandlíková, 1962年2月19日 - )は、旧チェコスロバキア・プラハ出身の元女子プロテニス選手。1980年代に活躍し、4大大会「4勝」を挙げた名選手である。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス27勝を挙げた。当時の女子テニス界の2巨頭であったクリス・エバートとマルチナ・ナブラチロワの壁に挑み続けた選手の筆頭に位置している。
父親のウィレム・マンドリク(Willem Mandrik)は1956年のメルボルン五輪と1960年のローマ五輪で、オリンピックの100m走競技で決勝進出の経歴を持つ陸上選手だった。父親から恵まれた運動能力を授かったマンドリコワは、故国の偉大な先輩ヤン・コデシュに憧れてテニスを始め、成長期から同じプラハ市出身のマルチナ・ナブラチロワを目標に掲げてきた。
1978年にプロ入りし、その年にWTAツアーで2勝を挙げる。1980年の全豪オープン決勝戦でウェンディ・ターンブル(オーストラリア)を 6-0, 7-5 で破り、4大大会初優勝を飾った。翌1981年は全仏オープンで初優勝を果たし、シルビア・ハニカ(当時西ドイツ)を 6-2, 6-4 で圧倒したが、ウィンブルドン決勝でクリス・エバート・ロイドに 2-6, 2-6 で完敗した。全米オープンは最初、1980年と1982年の2度準優勝で止まり、どちらも決勝でエバート・ロイドに敗れていた。
1985年の全米オープンで、マンドリコワは同大会3度目の決勝進出でついに初優勝を果たし、同国の先輩選手であるマルチナ・ナブラチロワを 7-6, 1-6, 7-6 で破った。本人の言葉によれば「私は12歳からマルチナのボールガール(球拾い)をやった」ほどの身近な憧れだったが、1986年のウィンブルドンでは5年ぶり2度目の決勝進出で、そのナブラチロワに 6-7, 3-6 で敗れた。1987年の全豪オープン決勝でもナブラチロワと対戦し、マンドリコワが 7-5, 7-6 で勝ち、7年ぶり2度目の全豪優勝で4大大会「4勝目」を飾った。これがマンドリコワの最後の4大大会優勝になる。この年に西ドイツのシュテフィ・グラフが世界ランキング1位に躍進し、女子テニス界は新たな世代交代期を迎えた。
1988年にマンドリコワはオーストラリア市民権を取得する。1990年のウィンブルドン2回戦敗退を最後に、28歳で現役を引退した後、チェコの後輩選手であるヤナ・ノボトナのコーチを9年間務めた。1994年に国際テニス殿堂入りを果たしている。
昔、青山学院記念館で開かれたエキシビジョン大会を見に行ったこともあります。 確かその頃は、ナブラチロワ、オースチン、エバート、マンドリコワの4人の対戦でした。
それにしても、アンツーカーの遅いコート出身なのにチェコ出身の選手ってサーブアンドボレー型の選手ばかりですよね。 ナブラチロワにはじまり、マンドリコワ、ヘレナスコワなど。 まあ、ヒンギスも生まれはチェコですけどね。
でも、グラフの前の時代のテニスって知っている人少ないですよね。 コート夫人、グーラゴン、アン清村、スーバーカー、バージニアウエード、ウエンディーターンブル、ミマヤウソベッチなど、、 木のラケットも懐かしいですが、、、あの頃に比べると今はもうテニスってブームでもなく競技人口も少ないかもしれません。
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