中田久美。 いわずと知れた、日本バレーボール界の名セッターです。
中学からバレーボールを始め、中学2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団。その後才能を開花させ1980年に15歳で全日本代表に選出される。翌1981年には日立に進み、日本リーグ新人賞を獲得。1984年のロス五輪での銅メダルを皮切りに、1988年ソウル五輪、1992年バルセロナ五輪に出場し、天才セッターと呼ばれた。
1986年11月、ブロックの練習中に右膝前十字じん帯断裂。再起不能ともいわれた大ケガだったが、厳しいリハビリを乗り越え10ヶ月後には再び試合に復帰した。
1988年2月、再び右膝を手術した。しかし右膝は完治せず、試合の時は、痛み止めの薬を手放せなくなる。同年ソウル五輪出場。
1992年バルセロナ五輪に出場。日本女子バレー史上初となる三度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。
バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退するも1995年に現役復帰、1996年にはアシスタントコーチ就任。1997年に日立を退社して以降、バレーボール教室など後進の指導や全国各地での講演、バレーボール解説者のほか、スポーツキャスター、タレントとして活動している。最近では、日本オリンピアンズ協会のHP上で森田淳悟とのインタビューも実現している。
2005年から翌年まで、日本バレーボール協会強化委員を務めた。
てめーら、コノヤロー!事件
2004年、フジテレビ「すぽると!」生放送において、アテネオリンピック出場権を獲得した全日本代表メンバーが出演した際、選手達の行きすぎた浮かれ具合とはしゃぎ振りに、中田は業を煮やしていた。その後、画面が試合映像に切り替わった途端、中田は「てめーら、コノヤロー!」と一喝し、選手達の気を引き締めると同時に、スタジオ全体を静まり返らせた。しかしこの時、マイクがオフになっておらず、その怒鳴り声が全国に流れてしまった(当時スタジオには全日本女子監督柳本晶一の他、フジテレビ幹部もいた)。容赦ない怒声が放送された事で、中田本人は発言後に今後フジテレビへの出入り禁止を覚悟したほどであったが、翌日日本バレーボール協会から「色々とご指導ありがとうございました。」と感謝の言葉が返ってきたという。数日後、その問題のシーンが同じフジテレビの「ジャンクSPORTS」でも放映され、ゲストで出演していた中田をはじめ出演者全員は大爆笑、浜田雅功の激しい突っ込みに中田は思わず笑い泣きしながら、その一喝の理由を説明していた。
ま、こんなにバレーボールに情熱を燃やしているからこそこういう喝を入れたんでしょうね。
1984年のオリンピック。 この頃大学生だった私はオリンピックのこの試合テレビの前で見ていました。 森田、三ツ矢、江上の3人に尾高、広瀬、大谷に中田。 あの頃が一番いい時代だったような気がします。
それにしてもやはり中国の郎平、すごかったですよね。
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