フィギュアスケートのライバルというのは数多くいますが、これほど対照的なすべりで極めたふたりというのも珍しいと思います。
まず、それぞれのプロフィールを。
伊藤みどり
ジャンプの伊藤として世界的に名前が知られ、全日本選手権8連覇、女子選手として世界で初めて公式戦でトリプルアクセル(3回転半)を成功させるなど、女子フィギュアスケート界に数々の金字塔を打ち立てた。伊藤の突出したジャンプ技術は、それまで優雅に氷上を舞う芸術だったフィギュアスケートを、鍛え上げられたアスリートが技を競い合うスポーツへと変革させた。1989年、「もっとも高得点をとったフィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載。2004年3月25日、日本人初のフィギュアスケート殿堂入り。2007年3月22日、開催中の世界選手権の会場で国際殿堂入りの表彰式が行われた。
4~5歳の頃にスケートを始め、6歳から本格的なスケート競技に参加。中日スケートクラブで山田満知子コーチに師事。1980年に、小学校4年生で全日本ジュニア選手権で優勝し、同じ年にはシニアの大会全日本フィギュアスケート選手権で3位となり、「天才少女スケーター」と呼ばれるようになる。1984年のサラエボオリンピックは、14歳の伊藤は年齢制限で出場資格が無かったが、日本スケート連盟は、「オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格を与える」という特例を活用し伊藤を五輪へ出場させるため、1983年の世界ジュニア選手権を札幌に招致。伊藤は3位となる。しかし、翌84年の全日本選手権では、規定で10位と出遅れ、ショートプログラムでは得意のダブルアクセルで転倒するなどのミスで5位、フリーで追い上げるも加藤雅子に次ぐ総合2位に終わり、日本人女子フィギュアの五輪出場枠が1人だったことから、伊藤は14歳での五輪出場を果たせなかった。
1985年、中学校3年生で全日本選手権で初優勝。以後、1992年の神戸大会まで優勝を重ね、渡部絵美と並ぶ史上最高8連覇を達成する(後に1996年の横浜大会においても優勝したため、通算9回優勝)。1988年に高校3年生で出場したカナダで開催されたカルガリーオリンピックでは、規定で10位と出遅れ、技術点では高い評価を得たものの芸術点が伸び悩み、ショートプログラム・フリースケーティングともにノーミスでありながら総合5位入賞(ショートだけでは4位、フリーだけでは3位)にとどまった。この大会で金メダルをとった東ドイツのカタリナ・ヴィットが「観客はゴム鞠が跳ねるのを見に来ているわけではない」と、暗に伊藤を揶揄したため、「フィギュアスケートは、芸術かスポーツか」という論争を生むことになる。
同年、愛知県のフィギュアスケート選手権において競技会では女子選手として初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、翌1989年、大学1年生でパリの世界選手権で優勝。日本人初、アジア人としても初のフィギュア世界チャンピオンとなる。この時技術的要素の評価において、「完全無欠」とする6.0満点を、ショートプログラム(エレメンツ)では9人のジャッジの内2人が、続くフリースケーティング(テクニカルメリット)では9人のジャッジの内5人が付け話題となった。続く1990年にハリファックスで開催された世界選手権では連覇が期待されたが、規定(コンパルソリー)で10位と出遅れ、SP(ショートプログラム)とフリー(サルコウがダブルになるミスがあったもののテクニカルメリットで6.0満点を3個獲得)、でともに1位と追い上げたが、惜しくも総合2位だった。続く1991年のミュンヘンでの世界選手権は伊藤の不得意だった規定が廃止となり、2年ぶりの優勝が期待されたものの、6分間練習中にレティシア・ユベールと接触したことから負傷し、さらにSPではコンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルルッツは成功したものの、続くセカンドジャンプのダブルトーループの際にリンク外に飛び出すアクシデントがあり3位となり、この影響からかフリーでは前半の3つのジャンプにミスが生じ、総合4位となった。
翌シーズン最初の国際大会となった1991年10月のラリック杯は翌年に開催されるアルベールビルオリンピックで使用するリンクで開催され、オリンピックの前哨戦としてトップクラスの選手が軒並み出場する激しい争いが繰り広げられた。伊藤はオリジナル・プログラム(現在のショートプログラム)では、コンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルアクセルの着氷を乱してしまう。しかし、続くフリーではトリプルルッツ-トリプルトーループとトリプルアクセル-ダブルトーループのコンビネーションジャンプを完璧に決め、途中トリプルフリップとトリプルループにミスはあったものの、最終的には6種類のトリプルジャンプを成功させ、技術点で6.0満点を1個獲得して1位となり、優勝する。この大会の優勝で、伊藤には翌年のオリンピックの金メダルの大きな期待が寄せられることとなった。この大会のフリーの直前練習ではトリプルアクセル-トリプルトーループのコンビネーションジャンプを成功させており、この大会と続く12月のNHK杯の頃が伊藤の技術力のピークであった。
伊藤自身の選手生活において集大成となった1992年のアルベールビルオリンピックでは、オリジナル・プログラムのコンビネーションジャンプのファーストジャンプを、トリプルアクセルからより確実性の高いトリプルルッツに変更して挑むも転倒。結果4位となり、自力での金メダルは絶望的となってしまった。しかしフリー演技で、前半の2つめのコンビネーションジャンプのファーストジャンプであったトリプルアクセルに失敗しながらも、体力的に大技は困難とされる後半に再度トリプルアクセルジャンプに挑戦し見事成功。日本人フィギュアスケート選手では初の銀メダルを獲得。金メダルを獲得したクリスティー・ヤマグチに対し、続く世界選手権が雪辱戦となると目されたものの、体調不良で出場辞退。本大会がアマチュア最後の試合となった。同年4月25日にプロ転向を正式に表明、6月28日に名古屋スポーツセンターでさよなら公演「アイスフェスティバル ミドリイトウ フォーエバー」を行い、アマチュア生活に別れを告げた。
1993年に世界プロフィギュア選手権大会で優勝。1994年同大会で2位。1995年、第10回インターナショナル・プロフィギュア選手権(チャレンジ・オブ・チャンピオン)優勝するなど、プロスケーターとしても世界の第一線で活躍を続けた。
1995年には一時アマチュア復帰し、迎えた1996年の全日本フィギュアスケート選手権では26歳でトリプルアクセルを成功させ、4年ぶり9度目の優勝を果たすが、同年の世界選手権は体調不良もあって7位と不本意な結果に終わり、再び引退。1998年開催の長野五輪の開会式では、日本に26年ぶりの聖火を灯す大役を担った。なお、この長野オリンピック実現において伊藤は重要な働きをし、1991年の国際オリンピック委員会総会に振袖姿で出席し、オリンピック招致を訴えるスピーチを行った。
以後、所属するプリンスホテルのアイスショー出演や競技会の解説者としての活動がメインとなる。
現在、グランプリシリーズの解説や、テレビ番組のゲスト出演、新聞・雑誌のコラム等の執筆、フィギュアスケート入門DVDソフトの出演、YAMADAグループのインストラクタ-(アドバイザー)などで活躍している。
クリスティ山口
クリスティー・ツヤ・ヤマグチ(Kristi Tsuya Yamaguchi、1971年7月12日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ヘイワード生まれの女性フィギュアスケート選手で現在はプロスケーター。1992年アルベールビルオリンピック女子シングル金メダリスト。1991年、1992年世界フィギュアスケート選手権チャンピオン。日系アメリカ人。
両親ともに日系移民の家に生まれる。彼女は4世に当たる。出身地はカリフォルニア州ヘイワード。
女子シングルと並行してルディ・ガリンドとのペアでキャリアをスタートさせ、1988年には世界ジュニア選手権で女子シングルとペアの2つで優勝。1989年と90年には全米選手権を勝ち取った。ちなみにガリンドとヤマグチはジャンプの回転方向が違う(ガリンドが時計回り、ヤマグチは反時計回り)という珍しいペアであった。
その後ヤマグチとガリンドはペアを解消して女子シングルに専念。91年にはトーニャ・ハーディングに次ぐ全米2位、92年には全米選手権を勝って同年のアルベールビルオリンピック代表となる。この大会でライバルと見られた伊藤みどりがオリジナルプログラムにおいて失敗した一方、ヤマグチは無難にまとめ、またフリープログラムではトリプルルッツ+トリプルトウループ、2つ目のトリプルルッツという当時として難度の高い演技構成で1位となり金メダルを獲得した。
1991-1992年シーズン終了後クリスティはプロに転向。スターズ・オン・アイスのトップスターとして長年活動した。
1998年世界フィギュアスケート殿堂入り。
2000年8月、NHLのアイスホッケー選手であるブレット・ヘディカンと結婚。2003年には長女が生まれた。
2005年12月、合衆国オリンピック殿堂(アメリカオリンピック委員会により1979年に設立)に加えられた。
それでは、2001年のラリック杯(現エリックボンパール杯)
2位だった伊藤は、ここで、トリプルルッツートリプルトウループ、トリプルアクセルーダブルトウループを決め、その後失敗したフリップとループも飛びなおしすばらしい演技を見せます。
山口は、浅田真央と同じくトリプルサルコウが苦手でしたね。
今回は伊藤が1位、山口が2位でした。
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