旧ソビエト連邦だった国、カザフスタン。 鉱物資源が豊かなこの国は経済発展が著しいそうですが、日本人にはあまりなじみのない国ですよね。
カスピ海の東側にあります。
[編集] 住民
カザフ人が57.2%、ロシア人が27.2%、ウクライナ人が3.1%、ウズベク人が2.7%、ドイツ人が1.6%、ウイグル人が1.0%、高麗人が0.5%、その他6.6%となっている。(1999年時点)。以前はカザフ人よりロシア人の割合の方が高かったが、独立以降は徐々にカザフ人の割合が増加し逆転した。
ここで、何でこんなところにドイツ人や高麗人?がいるの? と疑問に思う人がいるでしょう。
それはこういうことです。
高麗人(こうらいじん、コリョイン、고려인)は、旧ソビエト連邦の領内に住み、現在は独立国家共同体 (CIS) 諸国の国籍を持つ朝鮮民族の人々の自称名である。
高麗とは朝鮮半島に10世紀から14世紀まで存在した朝鮮半島の国家で、日本では江戸時代まで多くの場合“朝鮮人”ではなく“高麗人”と呼んでいた。「高麗人参」はその名残である。また、世界的にも「朝鮮半島=高麗」という認識があり、非漢字圏では朝鮮民族のことを英語ではコリアンKorean、ロシア語ではカリェーエツкореецというように、朝鮮民族の呼称として“高麗人”にあたる語が広く用いられている。旧ソ連地域の高麗人は、その他称としての「高麗人」が自称に転化したものである。
もとの居住地は朝鮮と境を接した沿海州(沿海地方)であったが、1930年代後半から第二次世界大戦中にかけて中央アジアに追放された。現在の主な居住地はカザフスタンとウズベキスタンである。ウズベキスタンに住む朝鮮系の人口は110万人ほどで同国の人口の5%近くを占め、カザフスタンにも30万人ほどが居住する。
朝鮮人で旧ソビエトに住んでいた人が強制移住させられたという歴史があるんですね。
ちなみに、機械体操の金メダリスト、ネリーキムもこの高麗人だそうです。
18世紀以降エカチェリーナ2世の招きでロシアに移住したドイツ人も多く、第二次世界大戦前にはヴォルガ河畔にヴォルガ・ドイツ自治共和国を築いたが、大戦勃発後にカザフスタンなどに強制移住させられた。旧ソヴィエト連邦内に住むドイツ系住民は200万人近くいると推定されている。しかしソ連崩壊後、旧ソ連各国で民族主義が台頭し、ドイツ系住民は迫害されて祖国ドイツへ帰国する人も増えている。しかし同じ民族ながらドイツ語を解さないドイツ人として新たな難民問題となっている。
ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国(ロシア語: Автономная Советская Социалистическая Республика Немцев Поволжья, 独語:Autonome Sozialistische Sowjet-Republik der Wolga-Deutschen, 英語:Volga German Autonomous Soviet Socialist Republic )は、旧ソ連邦内にかつて存在した自治共和国。首都はエンゲリス。1924年1月6日に発足し、1941年8月にスターリンによって強制解散させられた。
沿ヴォルガ連邦管区に所属し、名目上はヴォルガ・ドイツ人の民族自治共和国として、1918年のロシア革命に乗じて建国された。領内は、ロシアでは少数民族であるドイツ人入植者の末裔が数多く居住し、1897年の段階では180万人を数えた。日本語では、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国とも略称される。
ロシア革命の後も敬虔なヴォルガ・ドイツ人の約76パーセントがキリスト教ルター派を信仰していたが、無神論を掲げるボリシェヴィキ政権と間もなく摩擦を生じることになった。1919年に、反革命のプロパガンダを唱えているとして、多くの牧師がシベリアの強制収容所(グラグ)に送致されている。
ロシア内戦の合間もヴォルガ・ドイツ人への敵視は続き、赤軍によるヴォルガ・ドイツ人コミュニティへの猛攻撃が相次いだ。戦乱の余波として、ソ連を襲った飢饉によって、ヴォルガ・ドイツ人の実に3分の1の人口が失われた。
自治政府が発足した際に、恩赦が宣告されたが、実際にそれが適用された者はほとんどいなかった。1920年代にソ連で実施された民族政策(コレンニザツィヤ)によって、公式文書におけるドイツ語の使用が促され、ドイツ民族が支配的地位に立つことが推奨された。1939年の国勢調査によると、自治共和国内に60万5500人のドイツ系住民がいたという。
旧ソ連において「救国戦争」(1941年~1945年)と位置づけられた第二次世界大戦が始まると、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国に終幕が下ろされることになる。ソ連政府によって全てのドイツ民族が「人民の敵」であると宣告され、ロシアの一般大衆に、ヴォルガ・ドイツ人に対する迫害や恐怖心を膨らませた。1941年8月28日に、ヨシフ・スターリンが「ヴォルガ・ドイツ人追放宣言」を公布し、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の解体と、全てのヴォルガ・ドイツ人をカザフ共和国やシベリアに強制移住することを決定した。終戦後、ヴォルガ・ドイツ人は、ヴォルガ地域に帰国しないとする契約書に署名を強いられた。
1953年にスターリンが死ぬと、ヴォルガ・ドイツ人の待遇は急激に改善し、1964年に二つめの宣言が発布された。無辜の民衆を告発・弾劾したことについて政府の非を公に認め、ソ連国民に対して、ヴォルガ・ドイツ人の「経済的・文化的発展」に、あたうる限りの補助と支援を惜しまないようにと迫った。翌1965年に、「ヴォルガ・ドイツ人追放令」は公式に撤回され、無効とされた。それでもヴォルガ・ドイツ人自治共和国の再建はなされなかったのである。これはヴォルガ・ドイツ人の、ロシア文化への同化を迫る結果となった。
ソ連邦の崩壊後、多くのヴォルガ・ドイツ人は帰国権を楯に、西ドイツに出国した。このような集団移住は、ヴォルガ・ドイツ人の多くが、もはやドイツ語を分からなくなっているか、あるいは少ししか分からなくなっているという事情にもかかわらず、暫らく続いた。しかしながら1990年代後半に、ドイツ政府が、ドイツ語を少しも解さないドイツ系ロシア人の定住に手を打つと、とりわけヴォルガ方言のドイツ語でさえ分からなくなったヴォルガ・ドイツ人にとって、ドイツへの出国はいよいよ難しい問題となった。
日本人には考えられないことのようで。
日本も満州からの引き上げなどいろいろありましたが、ドイツは地続きの国のため、戦後のドイツ人に対する差別等はすさまじいものがあったようです。
ドイツ人追放
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第二次世界大戦後のドイツ人追放(だいにじせかいたいせんごのドイツじんついほう)とは、第二次世界大戦後ソ連領に併合されたドイツ領からのドイツ人と、ソ連軍に占領されたナチスドイツ勢力圏下の諸国からの民族ドイツ人の国外追放(強制移住)を指す。
この措置はポツダム会談によって決定され、「秩序ある人道的な方法」で行われることとされた。実際は1943年から1945年にかけてソ連軍の進撃から逃れるために国境近くに居住する多くのドイツ人が西方へ自主的に避難を開始していた。また、戦後ドイツは国土の25%をポーランドとソ連に割譲を余儀なくされ、追放されたドイツ人に対し食料などを提供することがソ連やポーランド当局によって禁止された。その上、戦後の混乱によって発生した飢餓、病気、民兵による乱暴、復讐を目的とした殺人によって多くの人々が命を落とした。冬の寒さがそれに追い討ちを掛けた。このときの犠牲者数は50万人から200万人と推定されている。死因の内訳はいまだ不明である。
連合国が1990年代公開した資料によるとこれらの領域から追放もしくは自発的に移住したドイツ系の住民(追放者と難民)の総数は1,650万人に及び、戦後の民族移動としては最大のものである。また、他に数100万人のポーランド人やウクライナ人も戦後にソ連に併合された旧ポーランド領から移住を強制された。これらはすべて西側連合国とソ連が合意して行ったことである。
ドイツ人(その中には戦争中にドイツ国籍を得た者もいる)の多くは、戦後ポーランド領に併合された旧ドイツ領の住民、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア(主にヴォイヴォディナ地方)に数十世代に渉って少数民族としてこれらの国家建設に寄与してきた人々であり、また、旧ソ連に併合された東プロイセンの一部(カリーニングラード州)、リトアニアその他の東ヨーロッパ諸国から追放された。これらの東ヨーロッパ諸国もまた戦後に国境線を移動させられた。ポーランドのように自国政府の意向を無視して強制的に大きく国土を移されたケースもある。
戦争末期から東部国境地帯に居住する多くのドイツ人は進撃してくるソ連赤軍に対する恐怖心から避難を開始していた。逃げ遅れた者の中には戦争中に犯した非道行為によって処罰されたものもいる。ほとんどはドイツ人であるがゆえに迫害された。
強制移住の理由
以下に示すようなさまざまな理由が挙げられている。
第二次世界大戦の期間における民族ドイツ人の行為(ナチス・ドイツ占領地域からのポーランド人やチェコ人追放を含む)に対する懲罰措置。同時に民族的に等質な国民国家を建設することにより、戦争に先駆けて発生したような民族対立の芽を摘み取る。また戦中のドイツ人は東方植民地計画 (Generalplan Ost) に則ってドイツ領に併合された旧ポーランド領のポーランド人の財産を奪ったうえで、彼らをドイツの直轄地とされたポーランド総督府領等へ追放、その犠牲の上に特権的な生活を享受した。ワルシャワはポーランド総督府領にあったが、そこにおける各民族の1日当たり平均摂取カロリーはドイツ人1人あたり 2,613 kcalなのに対し、ポーランド人に与えられたのは 669 kcal、ゲットーのユダヤ人に至っては 253 kcalと推定されており、食物の秘密調達なくして生命維持は不可能であった。ただし無許可の食料調達が発覚すれば現場で即座に銃殺された。総督府ではさらにポーランド人を家から追いたて、家族を引き裂き、子供を誘拐し、強制労働を課し、微罪を理由に処刑した。ポーランドの人口は1939年の4,280万人から1945年には3,460万人にまで激減した。370万人が故意に殺害されて230万人が迫害が原因で死亡するか行方不明になったと判明するのは後のことである。
ポツダム会談の参加国は、将来において民族間の暴力を避けるにはドイツ本国の国境外に居住する民族ドイツ人をドイツ本国に強制移住させるしかないと考えていた。ウィンストン・チャーチルは1944年に庶民院でこう述べた。「強制移住は、今まで考慮しうるもののうちでは最良の措置であり永続的なものである。常に繰り返される不幸を引き起こす他民族国家に居住する民族ドイツ人の混住状況はもはや存在しなくなる…完全な一掃が行われるのである。この移送に対して不安はない。これはむしろ現代の状況において可能なことなのである…」。このチャーチルの見解の立場をとると、強制移住はその目的を達したと考えられる。1945年に新たに設定された国境線は確固たるものであり、民族対立は殆どなくなった。しかし民族関係の安定は堅い鉄のカーテンによって説明されることでもある。なお、チャーチルは1946年の有名な「鉄のカーテン」演説でドイツ人強制移住を非難している。[1]
ドイツ本国外、特に東ヨーロッパ諸国に組織されたドイツ人少数民族団体は第五列として1939年のナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体やポーランド侵攻を支援した。ポーランドとチェコスロヴァキアでは自衛団 (Selbstschutz) その他のドイツ民族主義組織が現地のドイツ系住民によって編成され、破壊活動を行い、タンネンベルク作戦に代表されるポーランド人虐殺など様々な敵対的行為に加担した。戦争の終盤にはヴェアヴォルフ(Werwolf、人狼部隊)、ヤークトフェアベンデ (Jagdverbände、狩猟部隊)、ブントシュー(Bundschuh、紐靴部隊)といったドイツ系住民の準軍事部隊が連合軍占領地域でゲリラ活動を行い、ポーランド人や反ナチス的ドイツ人など多数の人々を殺害した。1945年3月23日に宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは「ヴェアヴォルフ演説」と呼ばれた演説を行い、全てのドイツ人は死ぬまで戦えと訴えた。そのため、戦後も残留するドイツ系少数民族がナチス・ドイツの桎梏から解き放たれたばかりの新生国家にとり治安維持に対する脅威とされた。1939年当時に遡るとドイツ系ポーランド人の成人のうち10人に1人は自衛団 (Selbstschutz) の構成員であり、ドイツ系ポーランド人総数のうち25%はナチス・ドイツによって支援された何らかの反ポーランド的組織に属していて、ポーランド侵攻とその後の占領に加担した。彼らはタンネンベルク作戦、AB行動、ユダヤ人ゲットー建設などの迫害行為を始めとした様々な犯罪に加わった。
この強制移住の目的は、民族ドイツ人の東方への伸張を阻止することである。ドイツの民族主義者は過去において常に、他国におけるドイツ系少数民族の存在をその国に対する領土要求の根拠としてきた。アドルフ・ヒトラーはこれを侵略戦争の口実に利用した。他国の領土からドイツ人を排除することは将来の潜在的な問題を排除することと考えられる。
強制移住は歴史的正当性のある行為である。例えばズデーテンの民族ドイツ人 (Sudetendeutsche) はチェコスロヴァキア解体に加担した。チェコの世論はドイツ人のこの行為を裏切りと捉えた。
ドイツ領やドイツ支配地域がソ連軍に占領されるよりはるか前に、ソ連によってポーランド東部の約200万人のポーランド人がシベリアのグラグ(強制労働収容所)に強制移送された。それに加えて80万人とされるワルシャワ住民がドイツによって特殊な労働収容所へ送られていた。戦後はこういった人々が帰郷したが、戦争で破壊された祖国で住居を必要としていた。
ソ連は1939年のポーランド侵攻でドイツと共に分割・獲得した旧ポーランド領を自国に再編入し、その結果ポーランドは戦前の領土の43%を失うこととなった。グダニスク(ダンツィヒ)を始めとした旧ドイツ領のいくつかの都市はドイツ系少数民族と戦略的に危険な国境線を排除する目的でポーランドに割譲された。さらにポーランドには、ヴィルノ(リトアニア語名ヴィリニュス)とルヴフ(ウクライナ語名リヴィウ)を失った対価として旧ドイツ領のヴロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)とシュチェチン(ドイツ語名シュテッティン)が与えられた。ソ連に併合された地域の代償としてポーランドに新たに与えられた領土についてはスターリン単独の決定でなく、イギリスとアメリカによる暗黙の了解があったものと解釈できる。
ヴァルテラント帝国大管区 (Reichsgau Wartheland) のようにポーランド侵攻後にドイツに併合され、ドイツ政府によって広範囲でいわゆる民族浄化が行われていた。そのため同地の民族ドイツ人やドイツ領に併合された後に移住してきたドイツ人の戦後の追放についてはほとんど同情されなかった。
[編集] 結果
1,240万人(あるいは1,650万人とも言われる)の民族ドイツ人が移住を強制された。移住途上で命を落とした人々の数については見解が分かれている。ドイツ連邦統計局の1958年の発表では、210万人以上の民族ドイツ人が強制移住によって死亡したとされる。1965年に発表された統計でもこの210万人という死亡者数が確認されている (Gesamterhebung zur Klärung des Schicksals der deutschen Bevölkerung in den Vertreibungsgebieten, Bd. 1-3, München 1965)。ゲルハルト・ライヒリンク (Gerhard Reichling) の調査では202万人の民族ドイツ人がソ連によって強制移住され奴隷労働に従事した結果死亡したとしている (Die deutschen Vertriebenen in Zahlen)。リューディガー・オーヴァーマンス (Rüdiger Overmans) は110万人が死亡したとしている。しかしこの数字とこの数字を得るための方法については、フリッツ・ペーター・ハーベル (Fritz Peter Habel) やアルフレッド・デ・ザヤス (Alfred-Maurice de Zayas) から異議が唱えられている。ハーベルやデ・ザヤスは死亡者数は200万人を超えると主張している。チェコやポーランドの歴史家はより低い数字を挙げている。これは前線で戦闘中に死亡した兵士の数が除外されたためとされている。
ソ連当局の命令による「死の行進」と、戦後の混乱状況で発生した山賊行為、飢餓、伝染病によって多数の人々が亡くなった。また、強制移住措置を待つ人々を待機させるための強制収容所での過酷な環境で死亡した者も多い。ソ連内務人民委員部 (NKVD) によって1945年2月から運営され、3月に共産主義ポーランドの内務省保安部Służba Bezpieczeństwaに引き渡されて、3月15日から積極的な親ソ派だったユダヤ系ポーランド人のサロモン・モレルSalomon Morelが所長を務めたズゴダ強制労働収容所Zgoda labour campでは、収容所が閉鎖された1945年11月までの9ヶ月の間に1855人の民族ドイツ人やポーランド人反共産主義者が死亡した。飢餓と劣悪な衛生状態から発生したチフスが主な原因である。1989年にポーランドで共産主義政権が倒れると新生ポーランドの検察はこれを犯罪として内偵調査を開始したが、それを察知したモレルは1992年にイスラエルに逃亡した。ポーランドにはこの類の犯罪について時効を設けていない。ポーランド政府はイスラエルに対しモレルの身柄送還を求めているが、イスラエル政府はこれを拒否し続けている。ポーランド国家記銘院(Instytut Pamięci Narodowej, 略称IPN)も歴史的観点からこの事件の調査をしている。モレル本人は無実を訴え、ポーランドの追及は「反ユダヤ主義の謀略」なのだと主張している。
1945年までドイツ語が優勢だった地域 シアンはオランダ語地域
1946年の連合軍占領下のドイツ。赤がソ連、黄色がアメリカ、緑がイギリス、青がフランス。1986年に発表された調査 (Die deutschen Vertriebenen in Zahlen. Gerhard Reichling. 1986 ISBN 3-88557-046-7) によると、民族ドイツ人の追放は次の通りである:
1945年以前のドイツ東部から7,122,000人
グダニスク(ダンチヒ)から279,000人
ポーランドから661,000人
チェコスロヴァキアから2,911,000人
バルト三国から165,000人
ソ連から90,000人
ハンガリーから199,000人
ルーマニアから228,000人
ユーゴスラヴィアから271,000人
追放された民族ドイツ人の総数は11,926,000人である。1950年には人口の自然増加によって12,400,000人になった。共産主義化した国家の全ての市民を対象とした国有化政策に沿って、ドイツやドイツ人の所有していた財産は没収され、新しい移住者に配分された。
ポツダム協定では、ドイツにおけるアメリカ、イギリス、フランス、イギリスの占領地に等しい数の放逐ドイツ人が配分されることになっていた。実際はソ連占領地域であるいわゆる東ドイツに移住した人の数は、西ドイツに移住した人の数の2倍であった。東ドイツに移住した人々のうち多くはその後アメリカ、カナダ、オーストラリアに渡って行った。
ドイツ人追放は必ずしも無作為に行われたわけではなかった。チェコスロヴァキアではズデーテン・ドイツ人Sudetendeutscheのうち多くの熟練労働者が残ってチェコ人のために働かされることとなった。グルニ・シロンスクGórny Śląsk(オーバーシュレジェン)のオポーレ(オッペルン)地方では、ドイツ人炭鉱夫とその家族はポーランドに残ることを特別に許可された。しかしドイツ語はその後40年間公用語としての使用を禁止された。それでもこの地方の民族ドイツ人の伝統やドイツ語方言は人目につかずに継承され、1990年代に入って徐々に公に認識されるようになった。
次はアメリカに移住したドイツ系の人々についてアップします。
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